天下分け目と言えば関ケ原ですよ!
そう答える人が圧倒的に多いと思っているあなた!
ほんとにそれが正解なのか、疑ってみたことはないでしょうか。
天下分け目の戦として、歴史ドラマなどで何度も見ているので、当たり前に関ケ原を思い浮かべる人が多いのも当然だと思います。
関ケ原以外に天下分け目の戦なんてある?
強いて言うなら天王山
天王山はスポーツの試合とかでよく使うよね
関ケ原と同じく、天王山も歴史が大きく動く出来事があった場所です。
どちらも天下分け目と言ってもおかしくはない・・。
じつはこの論争は、関ケ原と天王山のあるそれぞれの土地の人たちではかなり以前から話題になっていたようです。
天下分け目の戦いは、関ケ原なのか天王山なのか意見が分かれる理由について掘り下げてみます。
天下分け目と言えば論争
天下分け目と言えば関ケ原なのか、それとも天王山なのか。
この論争に決着をつけるためのネット投票が2017年に行われ、結果は関ケ原の圧勝となっています。
関ケ原と言えば、東軍率いる徳川家康と西軍率いる石田三成が戦った岐阜県にある場所です。
天王山は京都府にある山の名称です。
織田信長を本能寺で討った明智光秀と羽柴秀吉(豊臣秀吉)の戦では、天王山を制した方が優勢になるとして戦の勝敗を占った山と伝えられています。
どちらもその時代に、国を揺るがす大きな戦があった土地であることは間違いないのですが、天下分け目という前置きがあると、やはり関ケ原があまりにも有名になったので圧勝という結果になったのでしょう。
関ケ原と天王山の違い
関ケ原の戦いが天下分け目と言われるのにふさわしいのかと言えば、この戦で石田三成が負けたことで、豊臣家は衰退していくからです。
最終的には大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家は滅んでいくのですが、関ケ原の戦いが決め手になったと考えられるからです。
一方の天王山は、どちらも織田信長の家臣だった武将同士の戦いです。
本能寺で討たれた時の織田信長は、たしかに武士の中では力を持っていたのですが、まだ天下統一を成し遂げたというわけではありませんでした。
謀反を起こした明智光秀と、信長のかたき討ちという大義を掲げる羽柴秀吉との戦いは、同じ織田家の家臣同士の勢力争いであり、天下分け目という印象が残りにくかったのではないでしょうか。
天王山は明智光秀と羽柴秀吉の山崎の戦いにおいて、大きなポイントになる山だったのですが、「天王山での勝利で天下を取った」と受け止める人が少ないと思うのです。
また、関西では天王山、それ以外の地域では関ケ原と分かれるのではないかとも思ったのですが、大阪、兵庫、奈良の人に聞いても「天下分け目は関ケ原」と答えたので、とくに地域性の違いは感じませんでした。
関ケ原は東西の境界
じつは関ケ原は、天下分け目の戦いで東軍と西軍に分かれていたことから、東西の境界線になることがあります。
たとえば日清のどん兵衛というカップ麺の味付けです。
濃いめの味の東日本版と出汁の効いた薄口の西日本版の境界は関ケ原付近になっているのです。
西日本と東日本の習慣や文化の違いなどを比較する際に、天下分け目と表すことがあるのも、関ケ原がちょうど境界線になるからではないかと思えてなりません。
三日天下という言葉
天王山は天下分け目の地としては関ケ原に譲る結果になったのですが、たしかに天下を揺るがす大きな出来事があった場所だと言えるのが「三日天下」という言葉です。
三日天下とは、とても短い期間だけ権力を持つ地位に就くことです。
この言葉は明智光秀が本能寺の変から13日後には秀吉に負けています。
三日は「すごく短い」ことを表すためで、実際には三日ではないのですが、あっという間に高い地位から降りることを表す言葉の語源になったのです。
そう考えると、やはり織田信長を討った明智光秀は、天下を取った人物として認識されていたのではないでしょうか。
まとめ
関ケ原と天王山は知名度としてはどちらも優劣は付け難いと思います。
頂上決戦として例える時には、「天下分け目の関ケ原」よりも「天王山」の方が使われている印象です。
わかりやすくまとめると、東軍、西軍のように2つに分けて戦う場合は「天下分け目」、最終的なトップを決める戦いは「天王山」と使い分ければ良いのではないでしょうか。